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株式会社インティグレティドゥ・メディカル研究所

  Dr.JJこと 山崎 喜耀

  1950年東京都生まれ。仰臥位(仰向け)で行う治療法を体系化するために山崎研究室を作り、研究活動と臨床を開始する。'86年医学博士号、'98年生理学博士号を取得。基礎医学や解剖生理学を取り入れ、自身の治療・手技によるPCTS(Pain Cure Treatment Stretch)メディカル・ストレッチ法を30年かけて構築。この独自のPCTS施術によってあらゆる疾患に対応。2000年から2002年までの2年間渡米し、研究活動を行う。現地でのニックネームは、「日本から来た日本人」(I'm from Japan. I'm a Japanese.)から取って“Dr.JJ”。現在でもこの愛称で親しまれている。
  近年、アメリカなどで研究が進む、統合医療(インティグレティドゥ・メディカル)の日本における第一人者として知られ、健康だけではなく、美容誌、ファッション誌などからも注目。さらに、病気にかかりにくい体力作りを目的とした、「ウォーキング教室」を開催し、2008年春、DVD ブック「IKKO『美脚革命』」では、ウォーキング医学・監修を務める。

Dr.JJからのご挨拶

 PCTSが誕生した時のお話から始めましょう。少しの間お付き合い頂けたら、あなたの人生が大きく変わるきっかけになるかもしれません。
 1969年、私が大学1年生の時のことです。当時、64才だった父が脳梗塞で倒れました。病弱で、喘息、糖尿病、高血圧と闘う日々が続いていた最中の出来事でした。緊急入院の結果、身体の右側に麻痺があるとわかりました。
 うまくしゃべれない、字が書けない、物を持てない、着替えができない、立てない、洗面ができない、トイレに行けない。突然、そんな身体になってしまった自分を情けなく思って、父はよく泣いていました。その姿を見て、私たち家族も、とても辛い思いをしました。今でも、まるで昨日のことのように思い出します。
 発病から1ヶ月後、リハビリが開始され、麻痺との戦いが始まりました。発作後のリハビリは、現在では(症状の安定確認後に)早期に開始するのが原則ですが、当時は安静期間が長かったので、麻痺が残ってしまう患者さんが大勢いました。
 学生だった私は、病院のリハビリだけでなく、父の希望で、100カ所くらいで民間療法にも付き添いました。しかし、父が発する言葉はいつもたった2種類だけ。 「痛たたっ、くっ苦しい、い、息ができない」という悲鳴か、 「ふ〜ん?これは何をやってるの?う〜ん?意味がわからないなぁ?」という疑問でした。その結果、ほとんど治療の効果もないままに、父は身体の健康な左側を上手に使う生活に慣れていったのです。本来は右側の回復をするために、闘病生活を日々送っていったにもかかわらず・・・
 父に付き添う日々の中で、私は素朴な疑問を募らせていきました。何故、父が苦しむような治療法しかないのだろうか? うつ伏せでの治療は呼吸がしづらく苦しいと言っているのだから、仰向けで出来ないのだろうか?痛いと言っているのだから、痛くないように出来ないのだろうか? 私の頭の中は常にその事でいっぱいになっていきました。
 2年後、父の闘病生活は幕を閉じました。2度目の発作で帰らぬ人となったのです。しかし、私の心の中では、父との闘病生活が続いていました。私の頭の中を埋め尽くす疑問に、どうしても答えをださなければならない・・・
 こうして私の研究活動は始まりました。1977年6月9日には山崎研究室の開院とともに具体的な臨床がスタート。以来、臨床と研究を着実に積み重ねてきました。当初は〈バランスセラピー〉だった呼び名も、「痛みを、治すための、治療と、医療ストレッチ」であることを重視して、現在ではPain Cure Treatment Stretchの頭文字を取った〈Dr.JJ PCTS〉となりました。
 父の闘病生活の姿は、多くのひらめきを私に与えてくれました。そこから始まった、世界で唯一の画期的で合理的で最も効果的な結果をもたらす、新しい医療技術Dr.JJ'sPCTSは、現在ではPCTS(医療)・PCTA(鍼灸)・PCTB(美容)として、数多くの疾患に対応し、さらなる進歩を目指して、今も発展、成長を続けています。

Dr.JJ

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